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四天流

 の歴史

 流祖は成田清兵衛髙重。約360年前、居合剣術の達人として名をはせていた成田清兵衛は肥後細川藩藩主綱利公に招かれ、武術指南の傍ら大刀の故をもって組討の法を編出しこれを『四天流組討』と称し、居合剣術と共に三芸の指南役を務めました。

 

 のち、星野道場へと伝承された四天流組討は『竹内三統流柔術・矢野道場』『汲心流躰術・江口道場』と共に肥後の柔術三道場として隆盛を極め、幾多の居合や柔術の門下生が集まり、明治・大正・昭和にかけて柔術・柔道・居合の実力者・高段者を輩出することとなりました。

 

 星野道場門下であった三石先生より熊本市の昭武館へ肥後流躰術と共に伝承されました。現在、三石先生より師範目録を受けた田代・泉・松永の三師範を中心に、四天流星野派三石会として唯一伝承しています。

・星野道場
・星野家の師範
・師範 星野九門先生
・九門先生の武道
・星野九門 傳
・柔道形制定委員

 開祖・成田清兵衛先師は寛永15年(1638年)、肥前国(佐賀県)唐津に生まれ、佐々木宇平太といった。 清兵衛は思うところあり承応2年(1653年)、17歳の時武者修行の為、唐津を出て廻国の途に就く。下野国宇都宮にて佐々木元伯【富田(とだ)流=中条流中興の祖 富田勢源(せいげん)以降、富田派中条流を富田流と称す】の門人となり、居合剣術に熟達し流儀皆伝の上清水甚兵衛と改名。更に日本廻国の途に就き、これを聞いた細川綱利公が大阪に立寄った清兵衛に対し召抱える内意を示されたが、日本廻国の故に之を辞した。しかし綱利公も意は変わらず、再度大阪(江戸とも伝えられる)にて意の次第をつたえ、之を受け肥後細川藩に召抱えられる事となる。時は寛文元年(1661年)25歳の時である。翌寛文2年(1662年)知行二百石・御小姓師匠役を仰せ就き、その際綱利公の意により成田清兵衛と改める。武術指南の傍ら大刀の故を以って組討の法を編出し、これを四天流組討と称し剛の組討として天下に轟かす事となる。居合・剣術は他方に、その組討は右記のとおり伝わり現在に至る。

起源と系譜

成田清兵衛高重

西勇平治俊武

堀田孫右衛門之員

星野角右衛門實員

関群馬経貴

星野龍介実寿

星野如雲実直

星野九門実則

星野龍太実重

三石昇八

 

三石師範(講道館段位 九段)より以下の者に四天流組討目録を伝授す。

 

徳永誠助 井上大象 田代髙造

泉一則 松永利雄

・肥後流躰術の誕生
・星野道場から昭武館へ
起源と系譜
流祖 成田清兵衛
流祖 成田清兵衛

 名は髙重、清兵衛と称した。力が強く、諸武芸の達人であった。細川藩に仕え、居合剣術組討三芸の師範であった。食禄は250石。

享保3年7月22日没する。享年は未詳。

 明治22年に発刊された『肥後先哲偉蹟(正続)』によると、上記のようにあります。この章では清兵衛がどのような人物であったかを伝記、逸話、民話などで紹介します。

 

肥後の天狗

 成田清兵衛と言う人は、四天流居合兵法組討三芸の元祖である。諸国武者修行の際、妙應院様(細川綱利公)が噂を聞かれ、二百石でお抱えになり、組討については公にも御稽古されたということである。力の強さでは日本無双の人で、公の江戸訪問の際、木曽路にあって風頓君がご見学され、成田清兵衛、磯野彌兵衛を召して前に流れる河の水が昼間は流れる音が聞こえたものの、夜になって水音が止まったことは不審であるので、調べるようにとのことであった。清兵衛は水上に行き調べたところ、二筋ある水口が一筋せき止められていたため、2・3人で積み重ねられていた大石を、彌兵衛は柄の大きい鑓(やり)の石突で、清兵衛は棒で大した力も入れずに崩し、元通りにした。片陰から盗賊数十人がこれを見て、肥後の天狗が現れたと、恐れて逃げ出したということである。本陣(宿場)に流れる水を止め、火を付けて荷物を奪おうとしていたのを、清兵衛が力業で阻止したため、傍らにいる者達までが有り難く思ったそうあった。

 

鐵杖剣(てつじょうけん)

 面の原という所で綱利公が鷹狩りをしていたとき、暴れ牛が駆け寄り綱利公に突き係ろうとした。このとき清兵衛は鉄の太刀で牛の両方の角の間を撃ったところ、牛は一撃で死んでしまった。この太刀は柄が一尺二寸、刀身が三尺三寸の鉄製で、鐵杖剣と名付け、かねてより稽古の際に振っていたものであった。この太刀は、地鉄に炭籠の痕があり、三寸くらいがこの際にへげてしまったという事である。

 

多勢割

 ある時江戸で清兵衛を含む四、五人が申し合わせて芝居見物に行き、二段座敷の上段に席を取った。下段は薩摩の人間が座り、これも四、五人が座っていたのだが、芝居の最中に成田の杯の酒が滴り下の薩摩の人にかかったため口論となった。薩摩の人間はたいそう無礼な申しようであったがその場はなんとか収まった。芝居の終わった後、見物人も簀戸(すど)の外で混雑していたが、その中に先ほどの薩人もいたため、成田が通りかかりに「先ほどは」と言うやいなや、抜き打ちに一刀で斬り殺してしまった。「それ殺しだ」と大勢が捕まえようとしたが、清兵衛は不凡の強力であるため、ある者は突き倒し、ある者は投げ飛ばし、その場を悠々と立ち去ったということである。その際に大勢と渡り合った身構えを「多勢割」といって、かの流派に教え残っているということである。

 

民話「成田清兵衛と五叟(ごそう)の関の河童の話」

 成田清兵衛といえば肥後細川藩の侍大将をしていたほどの武士でその名は遠近に知られていた。この成田清兵衛は河童と馴染みが深かったようで、いろいろ話が残っている。ある夕べのこと、北岡の藩公の屋敷から酒に酔って出てきた彼は、ぶらぶらと流れに沿って上手の鐘ヶ淵の方に歩いていた。月が水面に光り、夕暮れ時の風がそよそよと吹いていて酔って火照った頬に気持ちよかった。清兵衛は詩吟の一つもうなりながら、その流れに沿った小路を歩いていた。

 やがて鐘ヶ淵のところまで来たところ、この水辺に黒い影をして童子のような者がさかんに騒ぎ集まっているのを見た。もうろうとした酔目を見開いてみると、それは河童の群れが集まって、月夜の相撲をとっているところであった。清兵衛は近寄ってしばらくそばに立って見ていたが、自分も誘われるようにしてその相撲の中に入っていった。しかし大人と子供の相撲のように何の苦もなく投げつけたり押さえつけたりした。しかし、どれだけ投げつけ押さえつけ負かしてやっても、河童は次から次に飛びかかってきた。奇妙な声を振り絞って細長い腕を突き出し、くちばしを突き立てて彼に襲い掛かってきた。彼が手玉をとるように空中に放り上げ、あるいは淵に投げ込み、あるいは地べたに「ぐちゃっ」というほど叩きつけても少しもひるまない。さすがの清兵衛も相当つかれてきたが河童の群は彼に少しの余裕も与えず、次から次に飛び掛ってきた。彼は次々に河童を投げつつ少しずつ自分の家の方に近づいて行ったが、どこまで行っても河童の群は奇妙な声を立てながらついてきた。彼はうるさくなり河童を振り払って行こうとしたが、しかし河童は執拗に掛かってきて彼を許さなかった。こうして酔後の長い時間の相撲は、彼をくたくたに疲れさせた。

 彼はやっと自分の家まで来た。しかし河童の群は彼を自由にさせなかった。清兵衛は自分の庭園で月光に照らされながら、「えいっ」「ほうっ」と言いつつ河童の大群となおも格闘をつづけた。

 家の中の者は庭園の騒がしい音を聞きつけて外に出てみた。すると清兵衛が一人、「えいっ」「ほうっ」とわめきつつ相撲の仕草をしているのが見えた。家の者は清兵衛の気が狂ったのではないかと驚いて取り静めようとしたが、清兵衛の周囲には何やら黒い色をした不気味なもやもやしたものが動き回っているので、二度おどろいた。その中の一人が、「これは河童にちがいない」と言った。それから家の者は河童退散の澁(しぶ)を取り出してきて、それを庭に打ち散らかした。澁(しぶ)は河童の大嫌いなものである。河童は澁(しぶ)を庭にふりまかれたので口々に悲鳴を上げて、さっと逃げて行ってしまった。河童が逃げてしまうと、清兵衛はばったりとそこに倒れてしばらく身動きをしなかった。すっかり疲れ果てた彼は、死んだように小さな呼吸をつづけるばかりだった。

 またの日の晩のことであった。清兵衛が眠っていると、外から、しきりに『成田清兵衛、成田清兵衛』と呼んでいる声がした。彼が目を覚ますと確かに彼の名を呼ぶ声がする。起き出て雨戸を開けてみたが誰もいないようである。彼は夢だったかと思って雨戸を閉めようとすると、また彼の名が聞こえてきた。彼は闇に向かって「俺の名を呼ぶのは誰だ」と聞いた。すると闇の中でもぞもぞと動くものがあって『俺は五叟(ごそう)の関の上に住んどる河童だが、石垣の間の自分の巣に入れないで困っている。巣の中に子供がいるが、入口に金物が引っかかっていて中に入れん。眠りを覚ましてすまんが、それを取り除いてくれんか』と言うのであった。

 五叟(ごそう)の関の河童が俺を頼ってきやがった、と清兵衛は愉快になって、そのまま庭下駄をつっかけてその関の上の石垣のところに行って調べてみるえと、なるほど河童が言ったとおり、田の中をすく「まが」が引っ掛かっていた。彼はそれを取り除いて帰ったが、翌晩、雨戸の外で何かぴちぴち物の動く気配がするので、何だろうと起き出てみると、どうしたことか大きな鯉が一匹雨戸のそばに置いてあった。家人を起こして誰が持ってきたか聞いてみたが、誰も知らぬ。清兵衛はふと昨夜の河童のことを思い出した。

 これは河童が礼に持ってきてくれたのであろう

 彼は満足そうに笑って鯉を中に入れ、それから雨戸を閉めた。

 

 

四天流と二天一流
四天流と二天一流

 肥後細川藩(熊本県)は、かの剣豪宮本武蔵が晩年を過ごした地であり、当然その流儀は細川藩に伝承されています。肥後先哲偉蹟には武蔵の直弟子、寺尾求馬助と清兵衛との関係、さらにその二人の弟子、村上平丙と臼杵杢之助の逸話なども記されています。内容が重複している個所もありますが、資料として載せています。

 

宮本武蔵の直弟子・寺尾求馬助信之

 成田清兵衛は、力技が得意であり、長大な鐵杖剣(てつじょうけん)太刀の技を用いた。ある者が寺尾求馬助に
「貴殿の剣法で、あの清兵衛の強力な鐵杖剣を受け止めることができるだろうか、貴殿の力では及ばないだろうな」と話たことがあった。

 これに対し求馬助は「私は小太刀一本で、あの鐵杖剣や大木刀で、いかに打ってきたとしても受け止めることができるだろう」と答えた。

 同席の人々はぜひ見てみたいと所望し、その事を成田清兵衛に伝えたところ、清兵衛も「ぜひ打ってみたい」と答え、求馬助の太刀と成田清兵衛の鐵杖剣との試合が整った。

 

 場所は花畑落間。双方が勝負したところ、求馬助は小太刀で、成田清兵衛の鐵杖剣を受け止めて動かさず、清兵衛は大いに驚き、

感心のあまり門弟になることを願い出た。重ね重ね求馬助にお願いしたが、求馬助は

「貴殿が私の兵法の門弟になったとしても、今まで御稽古を付けておられた門弟の方々もおられることであるし、

差し障りがあるのでそのままにしていたほうがよいと思われる。今までの成田殿の兵法は、力業の癖があることから、

今から稽古したとしても、武蔵流にはならないだろう。鐵杖剣のことは無念とは思われるが、他の技も研究し、

門弟に稽古されることをお勧めする」
との答えであった。それからは求馬助の助力を得て技を組立て直し、その上で今までの成田清兵衛の兵法に少々勝る所を工夫したが

うまくいかず、更に気味合を加えて完成させた。

 

もっとも四天流というのは、求馬助の二天流と成田清兵衛の二天流、二つであることから、合わせて四天であることから、

四天流と称するのがよいと求馬助は言ったということである。四天流が二刀を使うのは、この時以降のことであるとのことである。

この花畑落間であった出来事については、求馬助が記し置いたことから分かったことである。

 

四天流・臼杵杢之助とニ天一流・村上平丙

・花畑邸の試合

 臼杵杢之助は成田清兵衛の門弟で、居合兵法(剣術)組討の達人である。他国から名高い修行者二人が訪問した時、花畑邸において

仕合をする旨仰せ付けられた。杢之助は綱利公に対して

「一人ずつではとても私の相手には成りません。」
と二人一緒に仕掛って来る様望んだ為、修行者二人は一同に相手したところ杢之助は難なく二人とも御泉水(池)に突き込み勝利を収めた。

この事を聞いた村上平丙は、
「兼ねてより雌雄を争う間柄である臼杵がそのような仕合をやったか」と心中穏やかで無かった。

常々仲悪く、大家衆(大身衆)の仲立ちにより縁組が整った後平丙より勝負したいと望んだところ、杢之助は早速引き受け室内にて

仕合する事となった。平丙は木刀二本を提げて、杢之助は少し長めの太刀で正面を打ち掛かったところ室内の鴨居に当り、

それにより太刀の勢いが衰えたところを、平丙が両刀で挟み押したため杢之助は仰向けに倒れてしまった。

 杢之助は、場所を考えない軽率な所行であると成田先生より勘当を受けた為に剣術師範を辞めることとなった。

組討も達人であったが、今その伝の有無は不明である。

 

・仁王身

 この二人、お互いに争い事が絶えなかったが、大家衆(大身衆)の仲立ちにより杢之助の妹が平丙に嫁ぐこと

(家記には平丙の妹を杢之助が嫁にするとある)により縁組が決まった。ある日、剣術の事で争い事となり、

杢之助は庭に飛び出ると垣の強木を引き抜き構え、村上は三尺程の樫木の割木(たきぎ)を持ち立合った。

杢之助が正面を打ち込もうと強木を振り上げたところを、村上が割木で突いてきた為、杢之助は垣を押し破って隣屋敷まで飛ばされてしまった。

村上は次に成田に勝負を挑もうと、翌日成田邸に行き、昨日の様子を語り「この上は私との勝負を受けて戴きたい」と拳を振り上げ仕掛けたが、

成田は打ち笑い「貴殿の剣術の右に出る者が何処にいる。臼杵が負けた事は尤(もっと)もな事だ」

と非常に褒め称え勝負の意を全く見せなかった。これに気を呑まれた村上は帰宅して中々成田は侮れないと云ったと言う。

それより杢之助は剣術師範を辞め、組討の師範となることにした。

その息子も剣術を修め、杢之助の死後、師範に取立ててもらう為修行に励んだが、父の遺言により遂に師範となる事は無かった。

 この出来事により村上・臼杵は和解することなった。

また、臼杵は鑓(やり)も得意とし、鑓と組討は村上が負け、剣術は臼杵が負けとお互いに咄言いあう仲となった。

ある時、村上は臼杵に「仁王身を取って見せてくれ」
と言い、臼杵が直ぐに仁王身をして見せたところ村上は笑いながら
「仁王身そのものは良いものである。しかし私から見ればその理は解りづらい。只石を置いたように見えてしまう。

普通、人とはその動きを見てすばらしいと思うものである」
と。臼杵はもっともな事だと納得し、その後は仁王身を止めたという。

 

星野道場
星野道場

 藩政時代より肥後の柔術三道場と数えられていたのが「四天流組討星野道場」「竹内三統流柔術矢野道場」「扱心流躰術江口道場」でした。細川藩講武所、時習館は明治三年まで続きましたが、時習館末期の師範表には柔術8家が名を連ねており、その内訳は次のとおりであったといいます。

・四天流組討3家 ・竹内流柔術1家 ・扱心流躰術1家 ・當理流小具足1家 ・天下無双流捕手1家 ・揚心流柔術1家

 

 明治10年、西南の役(西南戦争)、兵火に依り道場が焼失したがが平定後に新築。九門先生による再興以来、大正5年2月までに入門者は組討3,362人・居合539人・薙刀218人と多くの門下生を抱え、いかに同道場が盛んであったが分かります。その武術は多岐に渡り、四天流組討、伯耆流居合、揚心流薙刀をはじめ、揚心流棒術・半棒術、根岸流居合・手裏剣など総合武術道場の様相を呈していました。

星野家の師範
星野家の師範

 星野家における四天流組討は角右衛門師範を元祖に龍太師範まで昭和初期まで続いていました。いつ頃星野道場を開館したのかは資料がありませんが、歴代師範を簡単に紹介します。

 

星野角右衛門

 嘉右衛門實久の長男、嘉左衛門が本家を継ぎ、角右衛門は別に分家して一家を創立した。この角右衛門先生は非常に武道の達人であり、伯耆流居合・四天流組討・揚心流薙刀に長じていた。とくに居合は遠く防州岩国に行って片山猿之助先生に就き(江口喜内先生より技の伝授を受けるとの説もある)、その奥義を究め、伯耆守の子孫片山利助より流儀筋相正の許可を得る。後ち細川公より三藝の指南役を仰付けられ、御奉公は都合31年勤める。寛政3年(1791年)2月25日病死。

 

星野龍介

 寛政3年(1791年)6月より角右衛門流儀の伯耆流居合・四天流組討・揚心流薙刀の師役を仰付、同6年(1794年)正月に三藝術皆伝も済み指南方に精を出された。文化元年(1804年)には防州岩国の片山友猪之助方に赴き居合流儀の極意判物等を受けられる。御奉公は49年勤められ天保8年(1837年)7月19日、79歳で病死。

 

星野如雲

 初め星野四郎左衛門實直と云い、後ち如雲と改む。父龍介の跡も引続き居合・組討・薙刀の三藝指南役であった。明治15年(1882年)5月30日、77歳で病死。

 

星野九門

 安政3年、18歳で居合の目録相伝を受け、27歳の時組討の目録・薙刀の目録を受け、27歳で居合の免状相伝、29歳で組討・薙刀の目録を受けた程の達人である。また剣術はわずか12歳で岐部先生の門に入り21歳で目録を受け、其の他槍術・砲術・馬術にも通じ師範格であった。明治3年、30歳でその跡を継ぎ、青年の指導教育に努められた。明治15年10月、熊本藩各種武術師範と協議し、市内高田原の地に柔術・剣術の二道場「振武會」を創設。これにより一時衰退した武道も再興の端緒を開かれた。

 明治29年、大日本武徳會が創設されると地方委員を嘱託、超えて明治31年4月支部の常議員となり大いに本県武道の振興に努め、明治31年から大正4年まで熊本地方幼年学校の柔術師範を嘱託された。斯くの如く各方面において尽力され、其の功労より大日本武徳會総裁宮殿下の御裁可を経て特別會員に選定、62歳の第四回武徳會に於いて其の術の精錬なるを賞せられ、特に精錬賞を下附される。その後大日本武徳會より特に柔術・居合・薙刀・棒術の審判員を嘱託、明治35年4月には熊本に於ける武道の将来を想い各流柔術師範6流7派の合併を企画して新形を制定。これが即ち肥後流躰術である。明治36年11月武術家優遇制が定められると特に柔道教士の称号を授興、同年更に柔道範士の称号を授興。先生66歳の時である。その後先生の発起で熊本支部内に武道研究会を組織しその会長に就任、肥後武道の振興に努力された。更に明治43年8月、73歳で居合術の範士の称号を授興された。また先生は非常に多芸多能で茶道に通じ桃井師範の歿後其の跡を継ぎ、自宅で茶道を教授されて居たが入門者は300人にも及んだ。その他金物一切木箱類の調整を唯一の楽しみとし、特に陶器類の彫刻・茶杓子等の調整は最も得意とする処であった。大正5年3月79歳で逝拠。市内出町往生院に葬る。

 

星野龍太

 陸軍歩兵大尉。大正5年5月、九門先生の跡を継ぎ三藝の師範となり、大正7年4月伯耆流居合・揚心流薙刀の免許相伝と、大正7年5月には大日本武徳會総裁宮殿下より柔道精錬証と居合術精錬証を興授、大正12年には更に居合術教士称号を興授。昭和6年11月、熊本支部天覧武道實演にあたり特に星野流代表として推薦され、四天流組討の形を上覧に供された。

「星野家御奉公附」による

師範 星野九門先生
師範 星野九門先生

 名は實則(じつのり)、九門と称し、玉井と号す。伯耆流居合、四天流組討、揚心流薙刀の師範である。三藝皆神に入り、武道に悟入(ごにゅう)し、後武徳會範士に推さる。行年79年、熊本市内往生院に葬る。

 

星野先生略傳

 先生天保9年【1838年】11月新堀町に生れ、弘化2年【1845年】家傳三流に入門してその技を研き、更に砲馬刀槍またことごとくその真髄を極めたり。武道における先生の経歴は下記の如し。

 

   流名     目録相傳年月     免許相傳年月

・伯耆流居合 安政3(1856)年3月 元治元(1864)年10月

・四天流組討 安政3(1856)年9月 慶應2(1866)年3月

・揚心流薙刀 安政3(1856)年9月 慶應2(1866)年3月

・新蔭流剣術 安政5(1858)年5月 明治31(1898)年12月

・宇田長門流砲術 安政5年(1858)7月

・大坪流馬術 安政4(1857)年2月

 

 先生の教を受けし者前後4,000名を下らず。その他、武道界における功績は枚挙にいとまあらず。下記の経歴によってその一端をうかがう。

 

 明治13(1880)年5月   武徳會柔術審判員(その後数回)

 明治16(1883)年10月 振武會幹事

 明治19(1886)年3月   大日本武徳會地方委員

 明治22(1889)年9月   熊本地方幼年学校柔術師範

 明治34(1901)年         武徳會熊本支部常議員

 明治36(1903)年11月 柔道範士

 明治38(1905)年         武徳流柔道形制定委員

 明治40(1907)年4月   武徳會熊本支部武術講習所柔術名誉教士

 明治43(1910)年8月   居合術範士

 

 先生は武道における、深遠なる修養を積み、ことに気合の研究において人間機微の霊覚を悟られ、ことに子弟にその一端を講明し、精神的修行に甚だ熱心にして、先生の門に入りし者、先生追慕の情深きは決して偶然にあらず。

 先生は武道の真髄を窮めるだけでなく、余技もまた甚だ多く茶道は細川三齋公の流を汲んで奥義に達し、桃井家を継承して宗匠となり門人すごぶる多く、また木竹金石の細工甚だ巧みにして茶盆・盒(ばこ)・硯蓋その他器具の遺作多く、彫鏤(ちょうろう)【彫りちりばめること】の精巧人目を驚かすものがあり、その鉄製のほほ當(あて)の如きは、明珍の作を模してほとんど甲乙を分かち難しという。先生壮年【年若く元気盛ん】にして病でしばしば薬に親しみながらも、老いて益々壮健。齢70を越えても居合の気合の如きはなお壮者を凌ぐしものがあった。大正5年2月下旬、急性肺炎に冒され3月3日危篤に陥り遂に起きる事が無かった腺享年79。熊本市出京町往生院境内に葬る。

「門人 國武猪太郎」談

九門先生の武道
九門先生の武道

 九門先生は武道の達人であったに関わらず、背丈は五尺【約150㎝】内外の小兵であった。だから武道家仲間では先生のことをコミョウ(虎猫)と呼んでいた。虎や猫はいたって俊敏な動物である。猫はどんなに投げ飛ばされても決して背中を地につけるようなことはしない。名人達人と言われた体術師範の九門先生は小兵ではあるが、これまで試合という試合にめったに負けた事が無かった。それは行動がすごぶる俊敏であり、猫が投げられても投げられても背中を地につけることのないあの俊敏活発な身のこなしになぞらえた異名で、それは直ちに変幻自在な先生の柔道の在り方を物語るものであった。

 

一、必法八識

 ある高弟が武道の奥義を先生に聞いたところ、先生はこう答えられた。

 世間の人たちは文武両道と言って文と武とは全く別物の様に考えているが、じつは文武とは一つのものであり二つのものではない。有形無形の二相を方便の為に文武と名付けているに過ぎない。また武道で重要とされる機制を制するには敢為(かんい)の呼吸が必要である。躰術は敵の力を利用し敵を倒す術である以上技術の熟練は必要であるが技術というものは己より劣った者には技を施す事ができるが、己より勝った者にはなかなか利かないものである。達人同士の勝負となると技の競いあいではなく、精神(心)の立会いである。敵が技を掛けようと思った瞬間、己の頭に無意識に之を感じ、同時に技を防ぐ備えができる。この状態を「心に映る」と言う。至誠と修養に依ってその道に至ったものには、敵の出方が鏡に物を照らしたように見えるのである。故に之を意識した時には、既に敵の技に応じる術が施されているのである。
 佛教に必法八識と言う事葉がある。八識とは、眼・鼻・耳・舌・身・意・末那識(まなしき)【梵語で意の上に立ち、左右大臣の様な役目を司るもの】・阿頼耶識(あらやしき)阿頼【身躰を総覧する天様の様なもの】の八つである。前の五つは有形のもの、後の三つは無象のものでありこの全部が揃って初めて完全な人間となる。武道が全くこの通りで、有形無形の躰と心とが整って初めてその真髄を得たものと云う事ができる。その真髄は、言葉では言い表す事の出来ないものを直感的に感ずる外はない。なすところ以心傳心で身読躰達して初めて分かるのであると。

 

一、虎猫(こみょう)の気

 武道に「虎猫の気」という事がある。この二獣は実に知覚鋭敏・挙動敏捷(びんしょう)な動物で、例えば厨房で魚を料理すれば、猫はその音を聞いて遠方から馳せてくる。試しに同じ包丁で空のまな板を叩いても決して騙される事はない。これは、その音や臭気で識別しているのである。先生は常に、人間は万物の霊長であるといわれ、虎や猫以上に玄妙不可思議な霊的作用を持っていながら、発揮する事ができないのは精神修養の足らぬ結果である。その修養を積むには武道に勝るものはない。何故なら武道は命がけの仕事であり、真剣な勝負である。真剣な稽古を積めば、敵の眼を見ただけで手の内を知る事が出来、無意識に技に対し防戦攻撃を行い、百戦百勝を得る事ができる。また、躰術において不真面目な稽古は非常に危険である。人体には急所というものが有り、もし気が抜けている時に一つ急所を當られたら、それで終わりであると。

 

一、名人は名人を知る

 先生は山岡鉄舟に私淑(ししゅく)【模範として慕い学ぶ】し、特にその気合に感服しておられた。鉄舟の剣は指を斬らせて腕を斬り、腕を斬らせて首を取ると云う流儀である。鉄舟はかつて、久留米の剣客と立会い負けたことがある。先生はこの試合、鉄舟が遥かに上で腕を斬られても首は取っぶいたと言われた。久留米の剣客もまた、自分が負けだと言っていた。先生は鉄舟の太刀筋、気合の立派さから決して負けてはいないと信じておられたようだ。
 また、熊本で常陸山・梅ヶ谷の両大関の勝負が吉田司家の膝下で行われた。両大関とも容易に勝負がつかず、見物人達が「水だ水だ」と騒ぎ出してしまった。その刹那、梅ヶ谷は常陸山を堂々たる大腹に乗せて土俵の外に抱え出した。余りの呆気なさに見物人の中には八百長だと言う者もあったが、先生は常陸山の気合が抜けたのだと申された。常陸山は「水だ水だ」と聞こえた為、一寸気が弛んだところを梅ヶ谷にやられたので、真に恥ずべきことだと言っておられた。

 

一、狗(いぬ)の霊感

 先生は狗でさえ人間の心を看破する霊感があると云われた。

 先生はかつて、熊本郵便局長を訪問された時に、一匹の洋犬が玄関に寝転んでいたので手を伸ばして頭を撫でようとされると、犬はにわかに起き上がり尾を揺らかして愛嬌を振りまき、まるで家人に接する様であった。ところがこの犬は知らぬ人には噛み付こうとする厄介な犬であった。その数日後、先生はこの事を聞き、次の訪問で前の様に手をやられたところ、今度は噛付かんばかりに吼え始めた。先生はこの体験に依り、最初は虚心平気の心で接したので犬もなれ近付き、後からは邪気の一念があったので犬もにわかに之を感じたのであり、犬も人の気合を知る事があると云われた。

 

一、臆病の療法

 ある門人が先生に対し、夜中真っ暗い木の下や藪陰(やぶかげ)などでゾッとして鳥肌が立つ事がありますが、如何なる理由で、またその場合いかにすればよろしいでしょうと質問に及んだ。

 先生は、人間は体全体に陽気が盛んであり、鳥肌がゾッとするような所は陰気が立ち込めている。その陰と陽が相和しようとしてゾッとするものである。その時には、下腹に力を入れて非常に恐ろしいことを考えたほうが良い。そうすれば自然と気が落ち着いて、恐ろしさが無くなってしまうと。

昔、源頼光の四天王の一人、渡邊綱が坂田公時【金太郎のモデル】に対して、心に恐ろしいと云う気が起こった時には如何すれば良いかと問うた。公時は、臆病な心を振払おうと思うならば臆病な心を知る事だと。

この言葉は簡単にしてその意味は実に深い。あたかも先生の言葉とは符節(割符)を合わせるようである。

「『門人 池田市朗』集録」より

星野九門 傳

九門先生の教え

 先生は門弟を教えるのに、道を歩く時は必ず左の足から踏み出せ、そして人家の角を回る時はつねに大回りせよと言っていた。歩行の際、左足から踏み出すのは学校も軍隊も同じである。これには確かな理由があるだろう。しかし普通の人にはちょっと説明が困難である。だが街角を通る時、人家を大回りする理由はよく分かる。それは小さく回ればふいに敵があらわれても構える時間がなく場所も狭いが、大きく回れば小さく回るよりも敵に対する余裕があるからである。また家の中に居るとき相手が突如として打ちかかってくればどうするかという問いに対して、何も刀や槍が武器ばかりではない。その場にあるものを素早く活用することである。たとえば座布団を投げるなり、これで防ぐなりその時その時の情勢によって臨機の措置に出ればよいし、また火箸があれば火箸、茶碗があれば茶碗と、なんでもありあわせのものを有効適切に用いるべきである。要はその場合の気力や胆力であって、別の言葉をもって表現すると統一された精力と敏活な身のこなしとでも言うのであろう。先生はいつもこうして門弟達を戒めたという。

 また先生は在熊の武道師範の中でもまれにみる弟子思いであったと伝えられる。寒稽古や土用稽古は無論のこと、日々の稽古もまた厳格だったが、稽古が終わると必ず30分間は道場に座って精神修養の話や技の研究を指導した。そして一人一人の門人の個人的なことにまで気を配り、時には励まし、時には叱ってあたかも我が子を叱りつけるよう寛厳よろしきを得たので門弟たちは心から先生を慕ったという。深水武平次・神江恒雄・安田鉄之助・広島卯三郎・大賀三喜など皆同門だが、ことに徳永茂八郎などは在りしの先生を語るに際し居ずまいを正し、泣いてその高徳を賛えた。先生は若いころ病弱で常に薬餌に親しんだ。しかし歳を経るにしたがって健康体となり、ことに70歳以後はすごぶる元気で、ことに居合の際の気合などは鬼神も避ける激しさがあったという。しかるに大正5年の2月下旬、急性肺炎に冒されると、さしも元気な先生も衰えが早く3月3日ついに他界した。門弟たちの非嘆は非常なもので、入棺から埋葬まで一切絵物屋の手を借りず自分たちの手で行ったという。

 

九門先生と山岡鉄舟先生

 先生は山岡鉄舟氏を人間としても武道家としても尊敬した。かつて藩主細川公に従って参勤交代のため江戸に行った時のことである。ある武道家が先生に試合を申込んだ。折りよくとといおうか、折悪しくといおうか、その場に一代の剣客山岡鉄舟が居合わせた。先生は負けるという懸念は毛頭なかったが一応はその申出を断った。ところが相手は先生が勝負に自信がないから断るのだと思ったのか、なおも執拗に試合を要求した。この有様を眺めていた鉄舟は厳然とその男を制して試合はするなと押しとめた。山雨正に至らんとして風楼に満つ、とでもいいたげな険悪な空気だったが鉄舟のこの一言で妖雲は吹き払われた。

 それから数年の後である。その武道家が新堀町の星野道場に先生を訪ねてきてねんごろにその折の無礼と粗惣を詫びた。男の述懐によると鉄舟から静止された時、自分は勝つべき勝負なのに何故止めるのだろうとすごぶる不満だった。しかしその後いろいろ考えてみたがあの時勝負しても、とてもあなたには勝てなかったということが今になってやっと分かった。だから今日はその時のお詫びに来たというのであった。そうと分かってみれば打解けるのも早い。二人はあたかも百年の知己のように胸襟を開いて語り合った。相手の男は筑後柳川藩の藩士だったという。

 

九門先生と嘉納治五郎先生 

 嘉納治五郎先生は明治15年講道館を興し、明治24年の8月から26年1月まで第五高等中学校【現 熊本大学】の校長として熊本に在住した。任務はもちろん子弟たちの教育にあったが、講道館の責任者として生まれたばかりの柔道の改良と振興に対して若い情熱をたぎらせた。嘉納先生は着任前から九門先生の武道家としての秀でた存在を知っていた。だから熊本に来てからしばしば九門先生を訪ねて柔道の改良と普及について意見を交わした。そして一週間も続けざまに訪問したようなこともあったそうだ。嘉納先生は武道家としての先生の人格と技術を尊敬し、九門先生の柔術の中から学ぶべきものを学び、取り入れるべきものを得ようと思っていたのであろう。

 

 大日本武徳會が創立されたのは明治28年だった。同32年、京都の平安神宮境内に広壮な武徳殿が新築され、小松総裁宮さまを迎えて記念の武道大会が開かれた。全国各地から粒選りの代表選手が陸続として集まり、剣道、柔道、弓道、居合など、各部門に試合が行われた。この時の大会委員長は嘉納先生、副委員長は九門先生が努めた。

 

 まず嘉納委員長の手元で伺候する代表者の序列が作られた。それによると第一席が九門先生、広島の某という柔道師範は第三席だった。服装その他すべて古式に則り、紋付袴に威議を正し、佩刀(はかし)【貴人が帯びる刀】を構えて静々と御前に進み、恭々しく一礼して引下るのだった。ところが第一に伺候した先生であるが、佩刀を右に持って悠々と御前に参進した。居並ぶ面々は、普通の場合刀は左手に持つが、その方式と違って右に持っているので何となく異様に思われた。わけても序列を決める際われこそは第一番目だと信じていた広島の某という武道家は、この決定に対する不満も手伝って満座の人々に聞こえよがしに「田舎侍だから武士の作法を知らぬ」と言って先生の態度をあざ笑った。先生につづいて各県の代表者たちが次々に伺候したが、いずれも従来の作法どおり佩刀は左手に持っていた。佩刀を左手に持つのは何か事のある場合ただちに右手を柄にかけて抜打ちの姿勢がとれるからで、それがまた武士としてはありきたりの普通の姿勢である。

 その夜先生は嘉納委員長の宿舎を訪ねた。そして、その日の出来事を詳細に話し自分が佩刀を右に持ったのはかくかくの事情だったと説明した。それによると、武士として敵に対する場合は刀を左に持つのが自然である。しかし左手に持つ場合は、かならず頭の中に敵という観念があるものとみねばならぬ。万一の場合さっと身を引き間髪を容れず右手で柄を握る。これが剣道の姿勢である。しかし勅使その他貴顕の方々の前に出る時は佩刀を右手に持てば全く敵対の意思の無いことを示し、言葉を換えて言えば武装を解いた姿勢となるのである。だから自分は佩刀を右手に持って総裁宮さまの前に参進したのだ。こう説明されてみると嘉納委員長もなるほどそうだったのかと先生の深い考えに感動した。そして熊本の第五高等中学校長以来の旧友である先生を武道家として、人間として今更のように見直した。

あくる日、この経緯が京都の各新聞に大きな見出しで掲載され、星野九門という武道家のすぐれた人格と技量が人々の口の端にのぼった。これにひきかえ困ったのは先生を田舎侍呼ばわりした広島の某師範である。穴があれば入りたい思いでその日の試合を棄権して急ぎ帰郷したいと考えたが、しかし一県を代表する武道家としてそれも出来ず、ついに先生を訪ねて粗相と暴慢を詫び、以来その指導を仰いだという。これは先生の高弟、広島卯三郎翁の直話である。

星野九門 傳
柔道形選定委員
柔道形選定委員

 明治38年、大日本武徳會は柔道形を制定するにあたり、嘉納治五郎を委員長、委員を星野九門・戸塚英美、委員補として各地より17名を選び、柔道形制定委員として武徳流柔道形を制定しました。このとき制定した形は、講道館柔道「極の形」として現在も講道館で伝承されています。

肥後流躰術の誕生
肥後流躰術の誕生

 明治も後半になると講道館柔道の全国的な広がりから、在熊の柔術道場もその影響を受け各流独自の技も失われつつありました。明治35年4月、九門先生は熊本の柔道(柔術)の将来を思い各道場、6流7派の各師範と協議し、新形を制定されました。これが『肥後流躰術之形』です。
 また同月、肥後流躰術の指導に関する協定が表明され、この出来事は地元の日刊新聞【九州日日新聞 〔熊本日日新聞の前身〕】にも報道され、次のとおりであったといいます。

 

 揚心流柔術、竹内三統流柔術、扱心流躰術、天下無双流捕手、四天流組討、同流、藍田流(当理流?)小具足
以上七流の柔道合併演武に関して各流師範の間に協定した事情になっている。

 

― 協  定  書 ―

 武道の将来に鑑み今般維持の方法を協定する事左の如し

第一条
(イロハ順)揚心流柔術、竹内三統流柔術、扱心流躰術、天下無双流捕手、四天流組討、同 流、藍田流小具足右七派合併し 肥後流躰術と改称し形若干選定す

形ノ名称

一、躰ノ先    一、水月    一、蹴上ケ返    一、負投    一、腰投

一、越シ返シ   一、折腰    一、折倒      一、打返シ   一、脇詰

但仕手相手ト称ス

 

第二条

(イロハ順)肥後躰術 星野派、同 除野派、同 高岡派、同 野々口派、同 矢野派、同 江口派、同 山東派と称し各派の形は従来の通保存するものとする

 

第三条

七派合併に拘らず従来の形保存する以上は各派の教師は勿論従来のまま其派の教師たるものとする

 

第四条

各派の教師は場合に由れば其流の門弟に否とに係はらず指導することあるべし

 

第五条

各派は互いに私立を去り親睦を旨とし、藝術真理を研究し斯道の発達をはかり兼ねて万事に応用するを努めるべし

 

第六条

各派の門弟は互いに競って藝術を錬磨する事は勿論なるも派と派との競争は努めて避くるものとする

 

第七条

肥後流躰術門弟には各派の教師共同試験の上、一、二、三、四の等級を附与するものとする

 

第八条

各派入門の手続き及び藝術の相伝等は従来の通り

 

第九条

各派の門弟にして其の派を離れ他派の藝術を学ばんと欲する者は前教師の許可を受けるべし

 

第十条

前件の協定にして万一実施に差支を生ずるときは協議の上改正加除する事あるべし

 

 協定書七通を製し各自記名捺印の上一通宛保存するものとする

 

明治三十五年四月

元 四天流組討 教師 星野九門

元 同流 教師 除野熊雄

元 天下無双流捕手 教師 高岡一太郎

元 藍田流小具足 教師 野々口常人

元 竹内三統流柔術 教師 矢野廣次

元 扱心流躰術 教師 江口彌三

元 揚心流柔術 教師 山東淸武

星野道場から昭武館へ
星野道場から昭武館へ

三石昇八 師範

 熊本市新町の昭武館に『四天流組討』『肥後流躰術之形』が伝承されることとなったのは必然的であったと言います。当時、宗家の三石昇八師範は、戦前の第8回日本柔道選士権大会(専門部・成年後期)で優勝した柔道家でもありました。熊本県宇土市在住だった三石師範は、遠路はるばる昭武館に稽古に来られていました。そして、ある日突然「四天流と肥後流の形を伝授する」とおっしゃられ館長の徳永誠助先生、熊本市消防局柔道部監督で昭武館の指導者であった井上大象先生、当時昭武館の主要門下であった田代髙造師範・泉一則師範・松永利雄師範の5人へと伝授されました。その後『昭武館』は閉鎖。徳永先生を中心に門下生で『星門会』を組織。その後『三石会』として四天流星野派柔術の伝承を続けて現在に至ります。

演武する三石師範

後列中央が若き日の現三石会会長 田代師範

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